社会福祉士レポート実例(倫理学-設題1)
社会福祉士のレポート作成にお悩みの方へ
実際のレポート作成例をここに提示します。
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設題1
「エイズ患者が一人いて死にかけている。病状は進んでいて治療薬はなく、毎日堪えられないほど苦しんでいる。患者は医者に安楽死を要請する。仮にこのような状況が生じ、あなたが担当の医者であるとすれば、その患者の要請にどのように応えるかを論じなさい。」
患者からの安楽死要請に応じることはできない。これが医師としての、患者の要請に対する態度であると考える。その理由は、①安楽死が法的に禁止されていること、②安楽死を行えば、裁判にかけられ、医師免許を剥奪されるかもしれないこと、これらのことから医師の立場として安楽死を請けることは不可能だといえる。
私の主張
この倫理的問題に対して、数ある哲学的理論の中でも、カントの理論を支持する。カントは、たとえ人間愛からであっても、嘘をつくことは罪であるとの考えを持つ哲学者である。例えば、殺人者に追われている友人が、家に逃げ込んできたとする。その直後、殺人者が来て「男(友人)が家に逃げ込まなかったか」と尋ねられた場合、この人殺しに対して嘘をつくことは罪であるという考えである。
つまりカントは「真実は所有物のように、それに対する権利が甲には承認されるが、乙には拒否される、というようなものではない」との主張をしているのである。カントの理論を、本設題における患者に対してあてはめると、医師は患者に対して嘘をついてはならないことになる。嘘をつかないとは、真実を述べることである。真実とはこの場合、安楽死が法的に禁止されているから、その実施を拒否することである。
医師が安楽死を行わない限り、患者は苦しみ続けることになるが、苦痛の源が医師にある訳ではない。したがって、そこに因果関係は存在しない。医師が真実を述べることと、患者が苦しむということの結果は偶然的である。つまり、実際に安楽死が禁止されている限り、医師が安楽死を行えないのは真実であるし、それをそのまま語ることが最善である。
反論1
上記のような主張をすると、次のような反論が返ってくる。
この医師は、患者の苦しみを理解していない。患者は、すでに死を宣告されているのと同じ状態である。精神的に異常をきたし、場合によっては自殺をする危険も考えられる。医師は患者に正直に対応することが最善と考えているようだが、自殺などの予測される患者の行動を考慮していない。安楽死の要請を拒否するのなら、代替案を提示すべきではないだろうか。
反論1に対する答え
ベンサムの「功利の原理」によると、人間は本来、快楽と苦痛の2つの君主に支配され、行動を指示・決定されるとしている。そのため人間は常に快楽を求め、苦痛を避けて行動している。快楽を感じている状態が幸福であり、快楽を生み出す行為が善で、その反対が苦痛であり、悪である。どのような行為も、その人の幸福を増大させるか減少させるかによって、承認されたり否認されたりする。
この功利の原理によると、患者は安楽死を快楽と考えている状態と言え、死ぬことを快楽とする患者に対しての対応には、医師として次のようなものが考えられる。
まず患者の問題点を分析することから始める。そして患者に対し、現在の医学で、でき得る治療方法や、痛み止め、もしくは心のケアの諸方法を時間をかけて説明し、安楽死という方法を避けるよう促すことに全力を費やすことである。
重要な点は、患者に対して誠実になること、医師としての義務を果たすことにある。義務とは、安楽死が禁止されているという真実を患者に伝えることである。それが誠実な態度であり、誠実は絶対的な義務である。もし例外を認めれば義務の法則は動揺し、役に立たないことになる。
例えば今後、別の患者が安楽死を要請してきたらどうするのかという問題がある。エイズ患者で、かつ堪え難い苦しみがある場合は安楽死を行い、苦しみが少なければ安楽死は拒否するという原則にするのだろうか。だとすれば、患者の苦しみの度合いは誰が判断するのだろうか。
このように例外をつくって個人のエゴイズムを満たすことは危険である。カントは実践理性の最高原理の1つとして「私たちのしようとしていることが、自然法則のように、みんなに通用する原則となって良いかどうか自分で考えてから行為せよ(1)」との意見を述べている。しかし、医師による安楽死が「みんなに通用する原則」とは考えられないので、私はカントのいう「善意志」にしたがい、安楽死要請を請けないという考えを支持することになる。
反論2
医師は安楽死を容認できないということを真実としている。この考えは、多数決原理により決められた「法律」からきているものだが、もしこの真実が逆転したらどうするのか、つまり安楽死が法律で認められたらどうするのだろうか。
反論2に対する答え
大事なことは、あくまで医師としての義務を果たすことである。義務の内容は、確かに多数決原理によって決められている側面がある。したがって多数決原理によって、医師の義務が逆転したとすれば、安楽死を行うこともあり得るが、現実の社会はまだ安楽死を容認していない。それより問題なのは、ベンサムの理論でいうところの「快楽を求め、苦痛を避ける」という行為そのものである。安楽死とは、すなわち「死ぬ行為」である。安楽死を容易に容認すると、どうなるかを考えてみる。
まず、安楽死を求める人が増加する可能性がある。エイズで苦しむ人だけでなく、リストラされた人、失恋した人、障害に悩む人、あらゆる自殺願望を持った人が病院に押しかけるかもしれない。あるいは安楽死を望むあまり、故意にエイズに感染する者が出てくるかもしれない。また、安楽死を容認するための基準を作るとしても、誰がそれを決めるのかという問題もある。したがって安楽死の要請者が多数派になったとしても、やはりカントの理論を支持するということになる。
結論
ベンサムやミルのように、功利がすべての倫理的問題に関する究極の判断力になるというつもりはない。ましてや生命の問題を扱う場合は、単純な功利性の原理では対応できないのは常である。しかし同時に「私のことだから私に勝手に決めさせてくれ」という個人自由主義の極論にも疑問を感じざるを得ない。
結局、医師は安楽死を幇助すべきではなく、医師として、安楽死を要請する患者に対してできる限りの治療をするのが最善ということになる。
【後 注】
(1)中島、712頁参考
【参考文献】
・加藤尚武「現代倫理学入門」講談社学術文庫 2000年
・中島恒雄「社会福祉要説」ミネルヴァ書房 2001年
社会福祉士からのコメント
倫理の科目であることから、設題の主旨は、学生の意見や倫理観を求める傾向が強くなっています。
今回のレポートでは、自分の意見と、それに対して予測される反論を提示し、さらにその反論に対して答えるという形式を採用しています。
ちなみに、レポートの中に「私」という言葉を書いていますが、これについては、主観的であるという意見があります。
でも、学生の意見を求めるレポートに対しては、あえて「私」を入れることもありだと私は思います。連発するのは、もちろん不可ですが、「私」があるから主観的、「私」がないから客観的だと断定するのは、ちょっと硬直的な考え方ではないでしょうか?
もっともあなたの教員が「私」を書くのは不可であると頑なに信じているのなら、あえて反抗することはありません。でもこれくらいは許容範囲であることがほとんどです。これが福祉系大学の良いところでもあります。