社会福祉士レポート実例(近世の歴史と文化-設題1)

江戸の商人

社会福祉士のレポート作成にお悩みの方へ

実際のレポート作成例をここに提示します。
この科目は、私が大学1年次の時に履修した一般教養科目です。社会福祉の専門科目ではありませんが、文章構成のバランスがとれている点が参考になると思い公開いたしました。


序論(目標規定分)・本論・結論(まとめ)」という、レポートとしては、極めてスタンダードな形式になっている点に注目してください。


また、項目立てについても、3つに収め、2000~3000文字程度のレポートとしては、文章量配分のバランスがとれた見た目にしている点にも留意してみてください。


書いてある内容自体は、歴史のことなので直接参考にはなりませんが、文と文のつながり、接続詞の使い方、具体例の提示の仕方については、他の社会福祉系のレポートにも、十分に流用できますので参考にしてみてください。

設題1

「江戸時代の生活と経済について述べなさい」


 江戸時代は、全体を通して米本位経済と貨幣経済という2つの経済構造を有していたが、概ね元禄期を境に、武士と町人の間で力関係の逆転現象がみらるようになる。
 したがって本設第では、元禄期を中心とした、江戸初期から天明期の頃までの、江戸の生活と経済について述べていく。

1.江戸の経済
 江戸時代の経済発展は、商人の活躍によって推進された側面が強い。江戸・京都・大阪の三都の豪商や、全国諸藩の城下町商人などによって流通機構が作られ、商品経済の発達に大きな役割を果たした。
 江戸時代初期から、三代将軍、家光の時代に鎖国体制が敷かれるまでは、朱印船貿易の制度による東南アジア諸地域との海外貿易が盛んだった。京都の豪商、角倉了以、茶屋四朗次郎などは、その代表的な特権商人として活躍した人物である。当時、領主と商人の関係は親密なものが多く、特に家康と茶屋四朗次郎は、親友に近い関係であったといわれている。
 しかし、家光の鎖国政策を機に、それまで海外に向かっていた経済が国内に注がれるようになる。参勤交代の制度は、国内の流通組織を整備し、三都の商人文化を全国に伝える結果となった。一方、家康の時代から続く、江戸の天下普請は、各諸藩大名の財政を逼迫させた。
 江戸時代は、家光の時代に、士農工商の制度が作られて以来、最高位である幕府、諸大名など、武家階級の主な収入は、領地からの年貢米であった。その米を換金することで領国や江戸での生活費用、家臣への給料、領地経営費の全部を賄っていたのである。
 したがって幕府や各諸藩は、耕地面積の増大など「いかに米をたくさん作るか」に力を注ぐようになる。しかし、米が増えすぎれば、米価格の下落を招き、禄米で生活する武士などは困窮し、幕府は米価の引き上げに苦慮するという皮肉を生み出す結果となる。
 そもそも、米価格を幕府の都合のよいように操作するなどということは困難なことで、もともと異常気象の多かった江戸時代は、幕府の思惑を他所に、たびたび災害による飢饉に見舞われるのである。
 ひとたび災害による凶作に見舞われれば、悲惨な飢饉が庶民を襲うことになる。
 例えば「天明の大飢饉」の時における奥羽地方の被害は、特に甚だしかったといわれている。人々は草の根や木の皮まで食べつくし、獣肉はもとより、死人や幼児を食べるものさえあったという。
 ところが逆に豊作が続けば、米が余り、白米を食べすぎて「脚気」になるものが出たりした。また、綱吉による「生類憐みの令」の時代には、中野の犬小屋にいた10万頭の犬に対して、1頭につき、1日に3合もの米を与えていたという話もある。
 米は、米本位経済において経済の重要な要素ではある。しかし、天候によって米の収穫高が左右され、経済が大打撃を受けてしまうシステムには、もはや限界が生じていた。ましてや鎖国下にある江戸時代においては、外国から米を輸入する訳にもいかず、江戸時代の米本位経済は、時を経るごとに貨幣経済への依存度を高め、商人文化の台頭を促す結果となったのである。

2.江戸の生活
 江戸の生活といって、まず思い浮かぶのは「庶民はいつも貧しい生活を強いられている」という固定観念である。ところが、文献調査をしていくと、それは必ずしも当てはまらないという傾向が見えてくる。先にも述べたが、江戸には天下普請や参勤交代があり、各諸藩は、江戸という都市にお金を使わざるを得ない状況にあった。そのため江戸は、各諸藩から、労働者や大名など、人々が頻繁に流入する都市となり、江戸には常にお金が流れてくる仕組みができていたのである。したがって、職人の仕事に対する需要や、商人による商売の需要は高くなり、それにともなって経済は活性化したと考えられるのである。
 とりわけ元禄期は、商人の時代とされている。同時に、この時期は支配階級である武士の貧乏が目立ち始めた頃でもある。商人は士農工商という身分制度下においてこそ最下位に位置しているものの、米本位経済から貨幣経済へと収斂されていく時代の流れの中にあっては、その知恵を活かし、様々な商売を狙うようになった。こうして商人は江戸の大量消費生活を支えたのである。
 例えば、荷物を担いで、野菜・魚類・油など様々な商品を売り歩く行商(振売)は、江戸庶民の暮らしと切っても切り離せないものであった。その独特の呼び声は、江戸の風物詩ともなっていた。
 また、古着屋もあった。現在でいうリサイクルショップである。江戸時代は古着を着ている人が多かった。それは衣服の生産が手織りだったため、供給が間に合わなかったことが一因と考えられる。ちなみにリサイクルといえば、大量消費都市である江戸では、人糞も、仲買・問屋を通して、下肥(肥料)という商品として再利用されたという。
 そして、商人による大名貸しも行われた。商人は、行商人から店持商人に至るまで、その階層は様々だが、商業の発達にともなって、かつての特権商人に代わり、三井高利のような新興商人が一大社会勢力として経済に大きな影響を及ぼすようになると、大名貸しを行う商人までが現れるようになる。大名貸しとは、経済的実力者である領主階級に無担保で金貸しをすることであり、商人にとっては安全な資金運用先であった。中でも、三井高利は、売掛金の取り立てに長けていたと言われており、大名貸しによって財閥まで築いている。後々まで成功をした商人の一人である。
 その他、札差し・屋台・両替商など、様々な商売に、様々な商人が関わることで、江戸の生活はさらに発展していったのである。

3.まとめ
 貧乏化の道を辿った武士階級に比べて、富を蓄えていった商人の勝因はどこにあったのだろうか。
 考えてみると武士階級は、戦国時代のように「戦争によって力づくで財産を奪取する」という本来の生産手段を失い、米本位経済によって、サラリーマン化していた。それに比べて、三井高利や、鴻池、住友などの商家の商人は、禁欲精神に裏付けられた、⑴才覚(やり繰りや創意工夫)、⑵始末(無駄遣いしないこと)、⑶算用(金の計算を厳しく細かくすること)、の精神を生活信条として、堅実に経営の基調を維持し、常に努力をしていたのである。こうした商人による「商人道」が商人の勝因であると考えられる。
 現代の日本は、江戸時代と比べて社会情勢は大きく変化している。鎖国体制は、もはや当然に無く、食物やエネルギーなどは、諸外国からの輸入に依存している状況にある。唯一江戸時代から変わらないのは、経済が重要な時代であるという点である。現代のように変化の激しい時代にこそ、江戸の商人の姿勢に学ぶ姿勢が必要であるといえよう。

【参考文献】
1.大石慎三郎「江戸時代」中央公論社 1998年
2.尾藤正英ほか11名「日本史B」東京書籍 1999年
3.林玲子「日本の近世 第5巻 商人の活動」中央公論社 1992年
4.宮林義信「江戸の生活と経済」三一書房 1998年

社会福祉士からのコメント

社会福祉系の科目のレポートで、福祉の専門用語を広範囲にわたって解説する設題の場合は、参考テキストを見ながら、穴埋めをすることは、さほど難しくはありません。調べればわかることだからです。しかし項目立ての数が多くなりがちで、字数オーバーを起こしやすく、教科書に書いてある説明をリライト、要約したとしても、短文の羅列が続き、見た目も悪くなりやすいのが難点です。


一方、本レポートの文章のように最低限の項目立てで、文をまとめようとすると、ある程度の情報を、頭の中で整理・編集する必要があり、より教科書や参考文献を、かみ砕いて理解する必要が出てくるのが悩みどころです。


 忙しい学生としては、締め切りを意識して、つい教科書の読み込みをおろそかにしてしまいますが、レポートの作成過程で得た知識は、他の科目の執筆時にも使える財産となりますので、時間の許す限り、教科書や参考書は深く読むことも視野にいれてレポート作成に取り組んでみることも必要です。

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